大師と繋がる仲間
韓春旭女史: プロフィール

姓名: 韓春旭  1956年大連生まれ。
1978年中国新聞学院を卒業後、中国工人日報社に入社し
記者、編集者を経て女流エッセイストとして活躍。

ここ数年来、人生、哲学、文化、歴史、宗教、生活をテーマに数多くのエッセイを発表。中国で最も影響力ある作家の一人とされ、二十一世紀を迎えた中国に新たな社会観、自然観、生活観を提示するエッセイストの旗手との評価を受けている。
彼女の代表的な作品『女性の極地(女性極地)』、『耽美派の散歩(唯美散歩)』、『人生と笑い(笑対人生)』、『私の心(我的精神)』、『命の重み(生命的約)』はジャンルや職業、年齢を超えて様々な人々に愛されている。その内数偏の作品は英語、フランス語、マレーシア語に翻訳され、海外で発表されている。

宗教、哲学を愛し、聖書、仏典、老子、ヒンドゥ-経典に造詣が深く、世界三十数
カ国を旅して実地見聞する大旅行家でもある。
ここ数年は人類社会学や宗教学の研究に打ち込み、「人類は人類至上主義や利己主
義から脱却すべき歴史的転換期にある」とし、新たな意識革命の必要性を主張する。

「生命に対する考え方を変えれば、人生そのものに大きな変革が訪れる。何故なら我々の心の中にいる創造主とは我々自身に他ならないからだ。我々はみな共通の愛情や同情心に支えられて生活を営み、各々が「したい事」と「できる事」を持っている。そこで我々全員が精神的な高みへもう一段上がろうと強く意識し、その中で自分のできることを実践したら素晴らしい明日になるに違いない」と。
悟楽大師、樹都空明さんと私

韓春旭


私は作家として、大手新聞社の記者、編集者として25年働いて参りました。
あれは1992年の事でした。今から思い起こしても本当に得がたいチャンスと偶然が重なり、悟楽大師と知り合う事となりました。当時の中国は気功を科学的に解明しようと様々な試みがなされていました。
悟楽大師はその神秘的な神業で、当時の中国政界を始め、金融界、新聞界などの上層部をあっと言わせていた人でした。私たちは初対面であったにも関わらずまるで旧知の如く、いきなり根本に触れるような精神文化の話題に切り込んでは活発なやりとりをし、友達となりました。
以来、それから10年というもの、いつも時間を割いては精神文化や人類の未来について時間を忘れて語り合いました。互いに友人を紹介しあったり、ともにアメリカにも行きました。日本には二回お邪魔しました。

2002年3月のこと、私が一足先に日本から北京に戻った日のことでした。家に到着して間なしに悟楽大師の電話を受けました。電話の向こう側で悟楽大師は本当に嬉しそうに興奮しながらこう言いました。
「京都でものすごい気功パワーを持った女性に会った。もし、もう少し鍛錬してエネルギーをインプットしてあげたら、きっと私以上の気功師になるに違いない」と。「それに彼女の住んでいる家がまた素晴らしく気の良い場所である。だから、将来、ここで調整道場もできる」と声を弾ませていました。
悟楽大師の言うことですからもちろん、掛け値無しで信じました。なにせ10年の友人ですし、常人には理解できない予知能力と気功治療能力を併せ持った人だからです。その電話をもらってからというもの、その女性に会いたい!と心待ちにしていました。

それから3ヶ月後の6月悟楽大師は中国に帰国しました。体調を壊して入院している時、いつも私にこう話していたものです。「病気が治ったらきっとあなたに樹都空明を紹介するよ」と。その後、病癒えず臨終にあった大師はこう語りました。
「気功のパワーを樹都空明に、思考のパワーをあなたに送る。これで安心して逝ける」と。
大師が世を去り、彼を知る多くの人々が悲しみ、大きなものを失ったことを嘆きました。2003年11月、青々とした木々と鮮やかな生花に覆われた大師の墓前で私は樹都空明さんと逢いました。
初対面で互いに手を握り合いながら、「以前どこかで逢ったことがある」と共に感じていました。
大師はとっくに私たち二人をきっちり繋いでいたからに違いありません。
それから三年間、彼女は毎年大師の墓参りに中国を訪れますので、毎年会うチャンスがあります。
会えばいつまでも長話をするのが常ですが、北京のホテルで深夜まで話込んだことがあります。
樹都空明さんは人の体を治す超常的気功パワーだけでなく、宇宙のメッセージを受信する能力もおありです。その中で、彼女は、「魂の進化のプロセス」と進化途中の各ステージで必要な条件を、
そして、東南アジアに大惨事をもたらした津波は何故起こったのか?を話してくれました。


私たちが共通して強く認識しあっているのは「愛こそが生命にとって最も本質的なエネルギー」であり、私たちは「愛情エネルギーをどう放出したらいいのか?」を学ぶ必要があるところです。本物の愛情だけが万物を創造した神と融合できるのです。
こうして我々は互いに知り合って、共感し合い、抱き締めあいました。
仏教では「福至心霊」と言います。愛情と真心で接することのできる人は他人の苦を除き、楽をもたらす事ができます。こういう人は自分の事業の将来を予測するにしてもその能力がますます向上するだけでなく、思いもよらない大きな福を得ることができます。私はそう信じて疑いません。
ここで私は天に居て私たちを見守っている悟楽大師の霊を、より一層強く感じずにはいられません。
悟楽大師が私に樹都空明さんを結びつけてくれたのです。そして、私たち二人が深く交流できるようにと、この講演まで黙々と文章翻訳を行い、或いは通訳に徹していただいている、得と高い霊性を持つ修行者・小林幹旺さんとも結びつけてくれました。

「人と人との調和、平安、喜び」は大師が生前最も渇望していたものです。
宇宙に偏在する全ての神の庇護の元、ここに縁あって集まった全ての友人の皆さんが諸仏の加持を得て、私たち生命が本当に必要な愛、静謐、平和に恵まれますよう、心より祈念申し上げます。


仏教楽師 弘済阿闇梨: プロフィール

弘済氏  1945年北京生まれ。家業の医学を学ぶ傍ら、幼少の頃より北京市少年官
の民族楽団に所属。
「中国中央民族楽団」の著名な笙の演奏家・王慧中氏にその才能を見出されて師事。王氏の継承者として、中国民族楽団の最高峰である「中央民族楽団」主席笙奏者として智化寺の笙奏者を務めた。現在は「北京智化寺楽団研修楽師」となり、唐代から続く仏教古楽唯一の伝承者として活躍。

80年代後半から90年代前半にかけては「北京智化寺楽団」団員として、中国国内はもとより東南アジア諸国、ヨーロッパで公演。ドイツ・ケルン大聖堂の公演は「生きた音楽の化石」と評され、好評を博した。中国革命前に幼少の頃から智化寺に入信し、智化寺古楽を伝承してきた「楽僧」(楽
器を担当する僧侶。幼少の頃より智化寺に入り、仏教と楽器を学び、厳しい修行に
耐えて選ばれた者だけが正規の「楽僧」を継ぐ) がここ数年高齢のため相次いで世を去り、弘済氏はただ一人の伝承者として残った。

自らがチベット密教の居士で敬虔な仏教徒である弘済氏は、笙、篳篥の演奏以外にも御詠歌の歌唱、手印など仏教音楽に対する造詣が深く、15年に渡り智化寺に伝わる「古楽譜」を発掘・整理し、復活させるなど大きな貢献をされている。

「空明の会第一回講演に寄せて」

弘済阿闇梨


一衣帯水の近きにある中日両国には歴史ある文化が花開き、絶えることなく後世に受け継がれてゆく。
仏教道教の医術は遥か遠い時代に興り、その交流が盛んだった宋や唐の時代のように、今再び日本に受け継がれよう。

私、弘済は幸運にも韓春旭女史と時平氏を通じ、悟楽大師や小林氏と知り合うことができました。
私は父が中国伝統医術「子午流針灸」権威でしたので、幼少よりその薫陶を受け、中国医学に親しんで参りました。
その後、中医研究院の初代整骨科教授・劉壽山氏に師事し、整骨学を学びました。悟楽大師とは共に医学を学び医療に携わる者として、また同じ仏教徒としての共通点を持っておりましたので、我々は互いに初対面ではありましたが、さながら旧友に会った心地でその出会いが「遅きに失した」とさえ嘆いたほどでした。

悟楽大師は仏教道教の両文化に精通した人でもありました。修養のレベルも高く、衆生を救済せんとの大慈悲を起こし、仏教の理と道教の術によって、多くの病める人々を絶望の淵から救い上げました。
今日における大徳の人と褒めたたえてやみません。

大師との行き来の中で思い起こされるのは、数日山奥に遊んでは夜遅くまで膝を交え、禅の玄妙や古今の聖人について語り合い、深い幽境の内で道教の真髄、陰陽五行・八卦を論じ合ったことです。
大師は博覧強記の人でその度量の大きさに及ばぬ自分を恥じるばかりでした。
数年前、大師は日本を訪れ、中国文化を広め有識者と共に事業を行い、中日の民間交流を促進し、仏教道教医学の普及に尽力されました。各地で講演を行いわかり易い言葉で中国の伝統文化と今日の先端科学を有機的に繋げる仕事をされ、大きな反響を呼びました。

日本で大師の弟子となった樹都空明女史は生まれつき聡明で、修行に勤しむ方であり、悟楽大師の真の後継者であります。天山気能功を使うに相応しい条件と大修行者の風格を備えられ、仏道を歩む者の
模範でもあります。小生この度、縁有って日本を訪れ同学の皆様とこうしてお会いする機会に恵まれ、喜びにたえません。僭越ではございますが、中国の文化を日本に伝え、日本の文化を中国に持って帰る
「中日文化交流の使者」として、はなはだ微力ではございますが、精一杯尽力する所存であります。
皆様に心より御礼申し上げます。